中曽根康弘が今朝死んだ。101歳。
1918年、高崎市末広町に生まれ、旧制高崎中学(高崎高校)を卒業して、東京帝国大学→内務省→海軍主計士官。
戦争中は軍隊慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていた という。( https://lite-ra.com/2014/08/post-413.html?fbclid=IwAR0wlG6NUqoUlrxKtnOgDlQFsQRUWCz372ycjgJgGNKO2L0uOyn9BQJIiCw )
1945年8月6日、広島に落とされた原爆のキノコ雲を見て、日本の核武装の志を抱く。
そして敗戦。
戦後は内務省に戻り、衆議院議員になる。日本の「原子力」開発の先頭に立った。
1982年に内閣総理大臣となり、戦後政治の総決算をかかげて、軍事大国化と改憲=悲願の「自主憲法制定」に向けて、日本の政治と社会の右傾化に大きく舵を切った。
その最大の焦点は、国鉄分割・民営化だった。中曽根は、自主憲法制定のためには、社会党をつぶす、そのためには国鉄を分割民営化して国鉄労働運動と総評を解体すると、公言してはばからなかった。
それから日本は、新自由主義の嵐の中で、規制緩和=規制撤廃と、民営化の嵐に見舞われる一方、労働者は非正規化と労働組合の御用化によって、弱肉強食の蹴落とし合いに突き落とされた。
国鉄分割・民営化の過程で自殺した職員は200人をこえた。中曽根の政治によって殺された労働者民衆は数え切れない。
しかし日本の労働者民衆から闘いを一掃することはできなかった。動労千葉の闘いが国鉄分割・民営化を30年にわたって破産を突きつけ、今労働者民衆の怒りは、安倍を打倒しようとしている。
高崎には、タカキンが、立ちはだかっている。
中曽根は101歳まで生きたが、ついに「自主憲法制定」を目にすることなく死んだ。ざまぁみろ。地獄に行け。
タカキンは高崎の地で、いつまでも中曽根の亡霊の前に立ちはだかる。