8・6ヒロシマ大行動報告&現状だより

高崎金曜日行動にいつも参加して仲間が、8・6ヒロシマ大行動に参加してきました。

以下、報告です。

高崎金曜日に参加している3名で被爆75年目を迎える広島へ。

「75年は草木も生えぬ」と言ったのは、原爆製造のマンハッタン計画を担ったハロルド・ジェイコブソン博士で、原爆投下の二日後の8月8日付ワシントンポスト紙上に報道された。すぐに同計画を主導したオッペンハイマー博士がこれを否定し、ジェイコブソン博士も撤回したという。

確かに75年目を迎えた広島は、緑豊かな広島だった。

しかし75年後の現在も、原爆被害の問題は、まったく解決していない。

それを象徴するように、7月29日の「黒い雨訴訟」の判決が降りた。

75年苦労してやっと被爆者として認められた方々がいる。

いや、いまだに認められない方々も数知れない。

8・6ヒロシマ大集会で発言してくれた「黒い雨訴訟」を支援してきた広島大学の名誉教授が、学会などは聞く耳も持たず、まるで変わらない、まだまだこれからだという話をされた。

8・6ヒロシマ大行動は、毎年被爆者・被爆2世・3世を中心として実行委員会を組織して闘われてきた。

新型コロナの感染拡大で開催も危ぶまれる中で、感染対策を万全に期しての開催。

他の記念行事、集会の多くが中止の中、とても重要な大行動となった。

実は新型コロナ以前に、ヒロシマ大行動を開催させない、とりわけ朝の記念式典にあわせた、原爆ドーム前の集会とデモを禁止する動きがこの2年ほど大きな焦点となった。

広島市が騒音規制条例を作って、デモを規制しようと動き出した。

安倍政権にとっては、毎年記念式典でのスピーチを直撃する「安倍はかえれー!」「改憲をゆるさないぞー!」というデモの声、そしてその背後にある、戦争・核戦争を絶対に許さないというヒロシマの声が容認できないのだ。

広島は保守も含めて、戦争と核には反対の声が強い。当然だ。

安倍はこの広島の反戦・反核の空気をぶっ飛ばさないことには、改憲の展望は見えてこない。

河井克行・案里の汚職事件は、安倍が1億5000万円もの選挙資金を提供して、当選させ、安倍子飼いの改憲派の制圧力を高めて、広島の反戦・反核意識を叩き折ろうというものだった。検察庁トップもまた黒川という安倍の子飼いになれば、汚職・買収の責任も問われない…はずであった。

こうした一連の動きの中で、広島市の騒音規制条例によるデモの禁止攻撃が強まってきたのだ。

この攻撃の先兵役を担ってきたのが、在特会・日本第一党の桜井誠(本名:高田誠)だ。もう何年もほとんど毎年、8・6ヒロシマ大行動の原爆ドーム前集会に乗り込んで、右翼の妨害の陣頭指揮を執ってきた。そのやり方は、右翼にちょっかい出させて警察の介入と弾圧を狙う、トランジスタメガフォンで騒いで集会を妨害するというものだった。

去年は、騒音規制条例で排除できると前のめりでやっていたが、結局排除できずにうなだれていた。

そして今年は、大きく戦術を変えた。

何と東京はじめ全国から女性を中心とした数十名の偽装「広島市民」部隊を作り、日本第一党広島県本部長の指揮の下で、無言で「静かに祈ろう」「慰霊のじゃまをしないで」「広島市民」などのボードを持って、集会会場の中に立ち尽くしたり、デモのコースに並んで配置したりしたのだ。

マスクでまんまと「広島市民」になりすましたつもりだったようだが、羽田空港からの航空チケットを落としてしまったり、あちこちで化けの皮がはがれた。在特会や日本第一党の活動家であることは、写真を色々照合すれば明らかになるだろう。中には広島市民がいるかもしれないが、ほとんどは絶対に広島市民ではない。

日本第一党広島県本部長がツイキャスで実況中継…

デモは、こうした珍奇な戦術を鼻で笑いながら、意気高く、整然と闘われた。

安倍は新型コロナ対策で虫の息、さらに広島・長崎のスピーチ・記者会見が物笑いの種と化す末期症状を呈している。

今年の8・6ヒロシマ大行動が作ったパンフレットの中に衝撃的な資料があった。

原爆投下から1年後の1946年8月6日の中国新聞の一面大見出し。

「けふぞ巡り来ぬ平和の閃光」

原爆が「平和の閃光」として、この広島で讃えられていたいたという事実。

調べてみるとまだあった。

1946年7月2日、木原広島市長がビキニの核実験で談話を発表している。

「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進し、市民の犠牲がその幾百倍、幾十倍の世界人類を戦争の悲劇から救出することができた。ビキニ実験は広島の当時の惨状を改めて世界に訴える好機である。世界の同情は自ずから広島に集まるであろう。平和をもたらした原子爆弾が破壊のためでなく、永遠の平和を確立し原子力が人類の幸福のために利用されることを念願する。」

この木原市長とはどういう人物か?

【木原七郎
木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月25日[1] – 1951年(昭和26年)12月24日[2])は、衆議院議員(立憲民政党)、最後の官選広島市長。ジャーナリスト。
広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。復興審議会を発足させて委員長に元市長の藤田若水を起用するなど、戦災からの復興に尽力したが、1947年(昭和22年)に公職追放で退任した。退任後はかつて自分の元で助役を務め後任市長(初代公選市長)となった浜井信三を陰から支え続けた。】(ウイキペディア)

侵略戦争を支えた権力者が、戦後、天皇制や侵略戦争への反省の言葉もなく、手のひらを返したように「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進」したと言い放つ。残念ながらこれを引っくり返せていない日本の戦後史。

ますます日本の労働者市民は、騒がないわけにはいかない。

平和公園が整備されるまでは原爆ドームの周りはお墓でいっぱいだったようです

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