新型コロナウイルス感染拡大で開催の危ぶまれた2021年、10年目の3・11集会。
無事に晴天に恵まれて、500人を超える参加で、原発事故は終わっていない、原発なくそうと、大きな声を結集して、さらなる大同団結の道、原発反対の希望を示すことができました。参加されたみなさん、心を寄せてくれたみなさん、ありがとうございました。
さらなる困難の10年が始まります。
しかし、私たちがこの3・7集会で確認した連帯と団結は、明るい希望を照らしています。力を合わせてともに前進しましょう。
ブログはしばらくお休みでしたが、高崎金曜日行動=タカキンは元旦も休まず、今日2021年1月29日で444回目を迎えました。
今年は、3・11から10年目を迎えます。ということは、タカキンもそろそろ10年目!一回も休まず、よく頑張ってきました。毎回欠かさず参加してくれる仲間たちのおかげです。
タカキンは、韓国のサムチョク市の仲間たちと連帯してきました。不退転に粘り強く、大衆的に闘って原発建設計画を白紙撤回に追いやった、風光明媚な町です。しかし、このサムチョクに性懲りもなく今度は火力発電所建設が降りかかり、今町の名所・孟芳(メンバン)海岸を埋め立てて工事が進んでいます。サムチョクの仲間たちは再び闘いに立ち上がっています。自然と町と人々の生活を守るため、今日もサムチョク郵便局前で、孟芳海岸で、ソウルの大統領府前で、抗議のピケッティングを続けます。
タカキンは、サムチョクの仲間たちの発電所建設反対の闘いに連帯します。労働者民衆の国境を越えた連帯が核と原発をなくし、平和な世界を実現する大きな力になります。
新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、10年目の3・11を迎えようとしています。
実行委員会形式で、立場や所属をこえて、毎年3・11に合わせて日曜日に開催してきた群馬さよなら原発アクション。去年は新型コロナ感染拡大の影響で中止とせざるをえませんでした。10年目の今年、どうするべきか?感染拡大状況を見ながら、昨年10月から実行委員会で議論を重ねてきました。
1月27日に、第4回実行委員会が開催され、感染対策を十分行いながら、3月7日に予定通り開催の準備を進めることを決定・確認しました。もちろん感染拡大の状況を見極めながら、直前に中止の判断の余地も残しながらの決定です。
しかしながら、感染拡大の中にあって、コロナの自粛ムードに流されずに、小規模でも構わない、原発なくそう・原発とめようと、10年目の3・11に声をあげようと参加者の総意として決定できたことはとても重要なことです。
それに先立つ1月21日、東京高等裁判所は、原発避難者群馬訴訟について、国と東電の責任を認めた一審判決の国の責任を取り消すという不当判決を出しました。実行委員会に参加した原告の方は、原発事故を繰り返してもかまわないという判決、福島では大きなニュースになったのに、首都圏では取り上げたメディアがない、と、怒りの報告を行いました。
私たちは、10年目の3・11を、原発事故と福島の被害をなかったことにする日としてはいけません。コロナ感染拡大状況の中でも、力を合わせ、工夫をこらして、声をあげる日にしましょう。
ゲストとして、海渡雄一弁護士と国鉄水戸動力車労働組合をお招きして、話を聞き、闘いを共有します。
デモは、声を出さずに、しかし音楽でにぎやかに、原発なくそうという意思を表明したいと思います。
デモ・集会にご参加の方は、可能な方は思い思いのプラカードをご用意いただければ大きなアピールになると思います。
今回初めて、ユーチューブを使った同時配信を試みます。集会・デモに足を運べない方にもごいっしょに参加していただきたいという試みです。
みなさんの知恵と力を持ち寄って成功させたいと思いますので、ぜひともご協力をお願い致します。
「#安倍晋三の逮捕を求めます」のハッシュタグのツイートが広がるかと思いきや、いまいちの伸び悩み。「#検察庁法改正案に抗議します」くらいの「トレンド」になるか、いや、したいなと思ったのですが。
それを象徴するかのように、「安倍を監獄へ」というコールに、クレームをつける酔っ払いの男性。こういう議論は、理路整然とちゃんとやって、できるだけたくさんの人を巻き込んだ議論にする必要があると思う。
安倍は、国の行政のトップでありながら、平然と嘘をついた。それは知らなかったでは済まされない。知らないという時点で、この人は責任を取れない人だということだ。一国の総理大臣など問題にならない人だ。
今の総理大臣は、安倍政権の官房長官であり、安倍と同罪はまぬかれない。
要するに、「桜を見る会」問題で、安倍-菅は、終わったのだ。
終わらせることができないならば、それは「国民」の責任であり、あらゆる政治党派の責任である。
襟を正して、ちゃんとやろう。
国際連帯も、自分たちの政府を相手にしっかり闘うことがスタートだ。
高崎金予備行動は11月26日で435回目。
サムチョクとの連帯が続く。
2020年11月13日で高崎金曜日行動=タカキンは433回目。
ブログの更新がだいぶ空きましたが、相変わらず休まず、毎週続いています。
原発建設計画を住民投票で白紙撤回させた韓国の東海岸の風光明媚なサムチョク(三捗)のまち。
高崎の金曜日行動とサムチョクの水曜日行動。
連帯を続けてきました。
そのサムチョクに今、凝りもせず、火力発電所建設計画が襲いかかっています。
サムチョク市民は再び立ち上がりました!
原発であろうと、火力発電所であろうと、なぜ市民の命が犠牲にされなければならないのか?
子供たち、孫たちの世代のために、黙っているわけにはいかない。
ここには民主主義や、住民自治のすばらしい形があります。
労働組合が資本と闘い、市民といっしょになって闘っているのもすばらしい。
高崎金曜日行動は、サムチョクと連帯します。
どこまでもともに闘いたいと思います。
支援と連帯をお願いします。
高崎金曜日行動にいつも参加して仲間が、8・6ヒロシマ大行動に参加してきました。
以下、報告です。
高崎金曜日に参加している3名で被爆75年目を迎える広島へ。
「75年は草木も生えぬ」と言ったのは、原爆製造のマンハッタン計画を担ったハロルド・ジェイコブソン博士で、原爆投下の二日後の8月8日付ワシントンポスト紙上に報道された。すぐに同計画を主導したオッペンハイマー博士がこれを否定し、ジェイコブソン博士も撤回したという。
確かに75年目を迎えた広島は、緑豊かな広島だった。
しかし75年後の現在も、原爆被害の問題は、まったく解決していない。
それを象徴するように、7月29日の「黒い雨訴訟」の判決が降りた。
75年苦労してやっと被爆者として認められた方々がいる。
いや、いまだに認められない方々も数知れない。
8・6ヒロシマ大集会で発言してくれた「黒い雨訴訟」を支援してきた広島大学の名誉教授が、学会などは聞く耳も持たず、まるで変わらない、まだまだこれからだという話をされた。
8・6ヒロシマ大行動は、毎年被爆者・被爆2世・3世を中心として実行委員会を組織して闘われてきた。
新型コロナの感染拡大で開催も危ぶまれる中で、感染対策を万全に期しての開催。
他の記念行事、集会の多くが中止の中、とても重要な大行動となった。
実は新型コロナ以前に、ヒロシマ大行動を開催させない、とりわけ朝の記念式典にあわせた、原爆ドーム前の集会とデモを禁止する動きがこの2年ほど大きな焦点となった。
広島市が騒音規制条例を作って、デモを規制しようと動き出した。
安倍政権にとっては、毎年記念式典でのスピーチを直撃する「安倍はかえれー!」「改憲をゆるさないぞー!」というデモの声、そしてその背後にある、戦争・核戦争を絶対に許さないというヒロシマの声が容認できないのだ。
広島は保守も含めて、戦争と核には反対の声が強い。当然だ。
安倍はこの広島の反戦・反核の空気をぶっ飛ばさないことには、改憲の展望は見えてこない。
河井克行・案里の汚職事件は、安倍が1億5000万円もの選挙資金を提供して、当選させ、安倍子飼いの改憲派の制圧力を高めて、広島の反戦・反核意識を叩き折ろうというものだった。検察庁トップもまた黒川という安倍の子飼いになれば、汚職・買収の責任も問われない…はずであった。
こうした一連の動きの中で、広島市の騒音規制条例によるデモの禁止攻撃が強まってきたのだ。
この攻撃の先兵役を担ってきたのが、在特会・日本第一党の桜井誠(本名:高田誠)だ。もう何年もほとんど毎年、8・6ヒロシマ大行動の原爆ドーム前集会に乗り込んで、右翼の妨害の陣頭指揮を執ってきた。そのやり方は、右翼にちょっかい出させて警察の介入と弾圧を狙う、トランジスタメガフォンで騒いで集会を妨害するというものだった。
去年は、騒音規制条例で排除できると前のめりでやっていたが、結局排除できずにうなだれていた。
そして今年は、大きく戦術を変えた。
何と東京はじめ全国から女性を中心とした数十名の偽装「広島市民」部隊を作り、日本第一党広島県本部長の指揮の下で、無言で「静かに祈ろう」「慰霊のじゃまをしないで」「広島市民」などのボードを持って、集会会場の中に立ち尽くしたり、デモのコースに並んで配置したりしたのだ。
マスクでまんまと「広島市民」になりすましたつもりだったようだが、羽田空港からの航空チケットを落としてしまったり、あちこちで化けの皮がはがれた。在特会や日本第一党の活動家であることは、写真を色々照合すれば明らかになるだろう。中には広島市民がいるかもしれないが、ほとんどは絶対に広島市民ではない。
デモは、こうした珍奇な戦術を鼻で笑いながら、意気高く、整然と闘われた。
安倍は新型コロナ対策で虫の息、さらに広島・長崎のスピーチ・記者会見が物笑いの種と化す末期症状を呈している。
今年の8・6ヒロシマ大行動が作ったパンフレットの中に衝撃的な資料があった。
原爆投下から1年後の1946年8月6日の中国新聞の一面大見出し。
「けふぞ巡り来ぬ平和の閃光」
原爆が「平和の閃光」として、この広島で讃えられていたいたという事実。
調べてみるとまだあった。
1946年7月2日、木原広島市長がビキニの核実験で談話を発表している。
「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進し、市民の犠牲がその幾百倍、幾十倍の世界人類を戦争の悲劇から救出することができた。ビキニ実験は広島の当時の惨状を改めて世界に訴える好機である。世界の同情は自ずから広島に集まるであろう。平和をもたらした原子爆弾が破壊のためでなく、永遠の平和を確立し原子力が人類の幸福のために利用されることを念願する。」
この木原市長とはどういう人物か?
【木原七郎
木原 七郎(きはら しちろう、1884年(明治17年)1月25日[1] – 1951年(昭和26年)12月24日[2])は、衆議院議員(立憲民政党)、最後の官選広島市長。ジャーナリスト。
広島県会議員を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。合計で3期務めた。
1945年(昭和20年)8月6日、原爆投下で広島市が壊滅し粟屋仙吉市長も被爆死すると、同年10月その後任として同市長に就任、最後の官選広島市長となった。復興審議会を発足させて委員長に元市長の藤田若水を起用するなど、戦災からの復興に尽力したが、1947年(昭和22年)に公職追放で退任した。退任後はかつて自分の元で助役を務め後任市長(初代公選市長)となった浜井信三を陰から支え続けた。】(ウイキペディア)
侵略戦争を支えた権力者が、戦後、天皇制や侵略戦争への反省の言葉もなく、手のひらを返したように「広島に対する原子爆弾が世界の平和を促進」したと言い放つ。残念ながらこれを引っくり返せていない日本の戦後史。
ますます日本の労働者市民は、騒がないわけにはいかない。